主任司祭 西川 哲彌(にしかわ てつや)

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4地区の伊藤 正(せい)さんを覚えてらっしゃるでしょうか。もちろん、たくさんの方がご存知でしょう。昔の清瀬教会はボーイスカウトが盛んで、ある面、教会に活気があった頃の方です。信徒会館が新しくなる前でしたから、ほぼ40年前と言ってもいいでしょうね。

息子の悦朗さんから電話が入りました。確か23日だと思います。「父が、あまり良くないのです。クリスマスは大丈夫だと思いますが。正月が越せるかどうかわからない状態です」と。それから二日後、25日に電話が入って、「父が逝きました。どうすればいいですか」とのことだったので、葬儀社の電話番号を教え、26日に打ち合わせをすることにし、葬儀委員の宮田さんに電話を入れました。

打ち合わせをする前に、葬儀社の霊安室にご遺体を移すことにして車を回してもらい、教会に寄っていただいて、私も同乗し、正さんと奥さんの喜和子さんが入っておられるホームに行きました。私は持って行った聖水を撒いて正さんのご遺体を清め、死後の祈りを捧げました。奥さんには、あまりにも急だったので、ご主人の死がピンときていないご様子でした。

ご遺体を乗せた葬儀社の車を見送って、教会の図書室で、葬儀の打ち合わせをしました。最初に行うことは、教会の都合と火葬場の空き状況を調べることです。教会は元旦まで空いています。問題は火葬場の空き状況です。ただちに、葬儀社の方に電話を入れもらいました。所沢はダメで、多摩葬祭場が、28日が一つ空いているということでした。ご遺族の悦朗さんの快諾を得て、ただちに予約を入れていただきました。早速、宮田さんがファックスを各地区に回して、伊藤整さんが亡くなられたこと、葬儀が28日に執り行われること、コロナのこともあるので会葬は控えて頂きたいとのご遺族の意向を伝えました。後で悦郎さんに聞いたら、何人かの方から連絡があって喜和子さんの様子を聞かれたそうです。

27日には、東京教区の司祭がカテドラルに集まって「テ・デウム」の集いがありました。この日はいつも銀祝・金祝・ダイヤモンド祝の司祭を祝います。今年は、澤田和夫神父様が叙階70周年を迎えられ大きな拍手で祝福されました。そして、今年着任された新しい教皇大使レオ・ボッカルディ大司教様も紹介されました。久しぶりに、ケルンホールで食事パーテイーがありました。

一晩明けて、28日の正午、正さんの葬儀が始まりました。まず、納棺式が執り行われました。典礼の準備及び後片付けは上原さん、進行は辻村さんです。出席者は、教会から若干の方と伊藤家の係累の方々です。

ミサの説教は、妻の喜和子さんの言い分に答える内容でした。喜和子さんがおっしゃることは、「夫はボランティアに明け暮れて、私にはちっとも構ってくれなかった。朝から晩までボランティアで出かけていた。教会にも、ボーイスカウトにも、近所の子ども会にも出かけて、ちっとも家にいなかった。まるで私はボランティア未亡人だった」ということです。

私は、説教で正さんをかばいました。例えば、ボーイスカウトを例にとっても、集会があれば、1時間や2時間、それ以上も前から会場に行って、子どもたちが怪我をしないように、石を拾ったり、周りを点検したりし、集会が終わったら使ったものを倉庫にしまったり、ちゃんと数を確認したり、落とし物や忘れ物を持ち主に届けたり、家が遠い子どもたちを近くまで送ったりする人が、正さんだったのです。そのような縁の下の力持ちがいたから、集まりは滞りなく進められていたんですよ、と説教を続けました。だから人より先に行き、人が帰ってから帰途についていたのです。見てきたようなことを言っていると思われたかもしれません。しかし、納得して頭を縦にふる方がいたことは確かです。

喜和子さんの慰めは、悦朗さんでした。悦朗さんは伊藤家の一粒種で、しっかりした素晴らしい方です。二、三日見ていただけで人を評価することは危険なことですが、間違いなく素晴らしい方です。

喜和子さんは、「小さい頃バイオリンを習わせたのに、途中でやめてしまった」とおっしゃっていましたが、むしろ、そのような環境の中で自分のやりたいことをいち早く見つけて、現在の学究の道に勤(いそ)しんでおられるのが、親の期待にもかなっているかと思います。

会葬には、正さんのお兄さんの子どもたち、つまり、悦朗さんのいとこの方が三人お見えになっていました。この三人と悦朗さんの楽しい会話を聞いているだけで、伊藤家の歴史と時代背景が目に浮かんでくるようでした。

ともかく、クリスマスに88歳で帰天され、三日目にお骨になり、お正月を迎えるという、覚えやすい記録をつくられた正さんは幸せな方です。正さん、夢の中で、喜和子さんを慰めてあげてください。そのことだけは、お願いします。

西川神父絵