主任司祭 西川 哲彌(にしかわ てつや)

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私は、できるだけ、朝、聖堂で「教会の祈り」をすることにしています。読書課の詩篇と朝の祈りと昼の祈りを、声を出さないで唱えます。声を出さないで唱えるというのは、唇だけは動いているけれど声は出さないやり方です。

教会の祈りは、長い歴史があって、第二ヴァチカン公会議以前は、ラテン語で唱えられていました。そして聖職者や修道者が1日に数回、共同で祈ったり、個人で祈ったりしていました。つまり、教会に一生を捧げた方々が、聖職の一部として共同で、あるいは、個人的にやってきた祈りでした。今は、それぞれの国語でやっていますし、信徒の方々にも、少しずつ広がっています。

今でもそうですが、司祭叙階式に、受階者は日々の務め(義務)として、教会の祈りを祈ることを誓います。だいたい、1日に4回は唱えることになっていますので、いつも「教会の祈り」と付き合って行かねばなりません。

私は、朝、聖堂で、読書課の詩篇と指定された第一朗読、それに朝の祈りと昼の祈りを一緒にやってしまうことが多いです。これはルール違反ですが、仕方がありません。教会にいると、いつも、何かがあって、祈りが抜けてしまいがちなので、あらかじめやっておくということです。あとは、晩の祈りと寝る前の祈りを一緒にやります。もちろん、サボることもあります。

ある信者さんが、ヒョンなことから、知り合いの司祭から勧められ、「教会の祈り」を買ってきて、やることにしました。一緒に買った手引書に従ってやればいいのですが、わかっているつもりでも手が出ません。いつかやろう、いつか始めようと思っているうち時間は過ぎてゆきました。そしてある日。チャンスがやってきました。体に変調がやってきたのです。つまり病気です。入院こそ免れましたが、家で横になっている時がかなり長くなりました。横になって色々思い巡らしていると、ふと「教会の祈り」が目にとまりました。立ち上がって手引書を手に取り、座ってページを開きました。何月何日、朝、昼、夕と司祭が教えてくれた通りに読みました。詩篇の言葉が、まるで矢のように突き刺さります。別の詩篇が、美味しい清水のように魂を洗ってくれます。

気がついてみたら、教会の祈りが、自分の心と体を元気づけ、今まで見過ごしていた聖書の言葉を霊的な食物としていただけるようになっていくことに気づかされました。「何気ない司祭の言葉が、このことに気付かせるチャンスになったということを、どんなに感謝していいかわかりません。大きな宝をいただきました。それ以来、どんなことがあっても、教会の祈りを手放すことがありません。」とまでおっしゃいました。

アッシジの聖フランシスコは、小さい兄弟(修道者仲間)の中に、教会の祈りを怠けたり、やらない兄弟(会員)がいることを聞いて、体が二つ欲しいほどいろいろな問題が山積しているのに、それらをぜんぶそこにおいて、何日も歩いて、兄弟たちのところに行き、教会の祈りの大切さを解いて改心を促し、理解を確認して帰ったというエピソードを聞いたことがあります。どれほど教会の祈りを大切にしていたか、聖フランシスコの気持ちが伝わってくるお話ですね。

話は変わりますが、私は、教会の祈りを唱えるたびに、思い出す光景があります。それは、北海道北杜市にあるトラピスト修道院です。

教会法で、司祭は、1年のうち一回、数日間の祈りの時を持つことが要請されています。いわゆる、年の黙想です。東京教区では、司祭の希望で三つの場所が選べるようになっています。その一つがトラピスト修道院です。何十年も続いているので、当たり前のように場所をお借りしていますが、修道院としても大変な犠牲を払ってくださっていると思います。

トラピストの祈りの特徴の一つは、教会の祈りを、七回とも、会員全員で、歌っているという点です。もともと、教会の祈りは、歌うように作られています。ラテン語でしていた時代の音声が残っていますが、グレゴリアン聖歌の歌唱法で、聖堂左右の修道者が交互に歌って行います。私たち黙想者も、それに合わせて、歌いながら、ついて行きます。もちろん、後ろから、やっとついてゆくだけです。しかし、なんとなく、仲間に入れていただいているような気持ちになります。

一昨年、広島教区の後藤正史神父さんが、教区から移籍を希望し、トラピスト修道院で生活を始めました。正会員になるのに、多少、時間と手続きを要しますが、時間は自然と、後藤正史さんを中身からトラピスト会員に変えてゆくでしょう。私は、朝、聖堂で教会の祈りをするとき、不思議と後藤神父さんを思い出します。そして、「神父さん、東京教区のためにも祈ってくださいよ。」と心の中で言います。今年も、東京教区司祭の「年の黙想」が中止になりました。仕方がありません。でも、トラピストは、私にとって、さほど遠い感じがしません。教会の祈りのおかげです。本当に、目をつむったら、教会の祈りを歌う声が聞こえてくるような気がしますから。

西川神父絵