主任司祭 西川 哲彌(にしかわ てつや)

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先週25日、廣垣 操さんが天の父の元に旅立ちされました。88歳でした。廣垣さんが脳梗塞で半身麻痺となって信愛病院に入院されていると聞いて、早速駆けつけたのが一昨年のことです。その頃はコロナのことも心配なかったので、病室でゆっくりお会いすることができました。ご聖体をいただくことがそれ程に嬉しいことかと思えるほどに、喜んでくださいました。

ベッドの壁には、子どもや孫たちに囲まれた廣垣さんの家族写真が貼ってありました。「子どもさんとお孫さんたちですね」というと、満面笑顔で「そうです。いい子たちです。この子たちがよくしてくれるので、私は幸せです。」と、おっしゃいました。

ご聖体をお持ちして、それから何回か信愛病院に通いました。そして、長崎の出津教会の出身で、若い頃身内を頼って東京に来たことなどをお聞きしました。私は成人洗礼であるし、根に仏教の教えが染み込んでいるので、長崎の信者さんに引け目を感じながらこの道を歩んで来ました。ですから、廣垣さんのような方に会うと、ホッとするのです。

それからしばらくして、廣垣さんは体調を崩されて、信愛ホームに移られました。会いに行っても会わせてもらえないことが続きました。「それほどにおっしゃるなら」と言って、一度だけ、大きな部屋の中で遠くにおられる廣垣さんの姿を見ました。それが最後でした。

そして、亡くなられた廣垣さんにお会いしたのは、先週ご遺族が葬儀のことで集まっておられた葬儀社の一室です。白布をとってお顔を見ました。何もかも捧げ尽くし、すべてを天の御父にお返しして、ホッとされているお顔でした。一回り小さくなられた感じです。じっと見つめ、お祈りをしながら話しかけました。

亡くなられたその日、娘さんたちに声をかけて、教会に来ていただきました。四人の娘さんたちです。お母さんの話を聞きました。「母の教会は、長崎の出津の巡回教会の大野教会です。若い頃、身内の方を頼って東京に出てきて、聖母病院で長く勤めました。結婚して清瀬に移り、それからずっと清瀬にいました。清瀬を深く愛していました。家族も近所の人も、教会の方々も、心から大事にしてくれました。」この言葉に廣垣 操さんの全てが込められていると思います。

操さん(廣垣さん)の想いの中に、小さい頃から教会で叩き込まれた教えが詰まっているのです。その教えとは、主イエスキリストの教えです。主イエス様の教えは天主様の教えで、愛すること、愛のためには命すら惜しまないことです。主イエス様は、「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言い、最後は自らをたべさせるパンとなり、すべての罪を引き受けてくださいました。愛を生きると、主なる神の細やかな慈しみを感じ取ることができ、そこには大きな喜びが残ります。小さいときに教わった教えが操さんの魂に生きていて、いつも喜んで自分を捧げることを当たり前のように生きてこられたのだと思います。

考えてみると、操さんの信仰は決して特別なものではありません。キリストが「取って食べなさい。これは、あなたがたに与える私の体です」と言われ「アメン」と言って食べている私たちにも当てはまることなのです。操さんが受けていた信仰の原動力となるご聖体は、私たちがミサの中でいただいているご聖体なのです。違いは、操さんが初聖体からずっといただいてきたご聖体のありがたさを骨身にしみるほど叩き込まれたということ、そしてご聖体の意味を喜びの源泉として受け止めていることです。

私たちの信仰からすれば、操さんは決して特別な信仰を持っておられた訳ではありません。同じです。あえて違いを探せば、喜びです。聖パウロが、何度も言っている通り、「いつも、喜んでいなさい。」に突き当たります。使徒言行録にあるように、聖パウロは何度も死ぬような目に遭っています。その中でも、「喜んでいなさい、絶えず喜んでいなさい。私たちがいただいている信仰は、喜びをもたらします。喜びがなくなったら、信仰もむなしくなってしまいます。」と断言します。私たちが何度も父なる神を裏切ることかあっても、神が私たちを見捨てることはありません。

たまたま、操さんが生きた信仰を私たちに示し、沈黙のうちに三位一体の神の素晴らしさを、身をもって教えてくださっただけなのです。操さんのような方は決して珍しくありません。教会にたくさんいらっしゃいます。だから、今回のような試練は、信者を教会から引き離すようなことがあっても、災厄が去ったらまた元どおりになってゆきます。長崎の殉教者のことを思い出してください。長崎のみならず、日本の国じゅうに殉教された方がおられます。殉教者が流された血こそ、この地に信仰者を生み出す種になっているのです。

西川神父絵