主任司祭 西川 哲彌(にしかわ てつや)

IMG_2082 コピー

新型コロナがもたらした、教会の冬が去って、やっと、春がやってきました。今月の21日から公開ミサが解禁になります。2月26日(灰の水曜日)以来の事で、約4ヶ月、教会での公開ミサはお休みだったのです。

「教会からミサを取ったら何が残る」と言われてもおかしくないほど、ミサは付き物でした。とにかく、日曜日、どの教会に行ってもミサはありました。もちろんこれからもそうあり続けるでしょう。しかし、ミサをしてはならない、人を集めてはならないという厳しい指示が教区本部から、大司教様の名で下されたのです。それは、安倍総理大臣が政府として、全国主要都市に発令した、新型コロナの感染を小規模で食い止めるための緊急事態宣言に応える形で出されたものでした。

日本のカトリック教会は、16の司教区に分割され、それぞれの教区長である司教様の判断で司牧運営がなされています。今回のように、ミサをしていいかどうかというようなところまで踏み込んだ内容であれば、教区長である司教様の判断と決断が問われてきます。私たちは、菊地大司教様のご判断に全てを委ねて、従ってきました。

毎週と言っていいくらい、教区本部から、メールとファックスが全小教区及び修道会・宣教会に届きました。司祭・院長あてのもの、小教区の信徒に当てられたもの、基本的には同じことでも、表現の仕方で受け止め方にニュアンスの違いがあったと思います。大司教様は、信徒の呻き声を聞きながら、政府の動き、都の判断、社会全体の流れを冷静に受け止め、判断されていたようです。相当苦労をされたことでしょう。察して余りあります。

「三密」つまり、新型コロナの感染を食い止めるために、人の集まりで、守らなければならない基本的な掟(おきて)に対し、かなり厳格に実行を要請されました。三密とは、密閉・密集・密接です。今回、ミサを公式的に再開するにあたっても、この三密回避を守ることが前提条件でした。

教会は、もともと、神さまが人を集めるところから始められたものです。集まれば、一緒に祈り、歌い、食べる、そして一つになる、自然な流れです。だからこそ、三密回避は、新型コロナが絶えるまで、守ってゆく掟になったのです。今月21日から、公的にミサの実施が許されます。今までの、聖堂に、入れるだけ入ってミサを捧げるということは、夢のまた夢です。初めて、聖堂に入れる人数に制限が加えられることになりました。清瀬教会であれば、45名の参加制限です。今までの教会の概念を、どこかで、きちんと変えなければなりません。うそみたいな話です。しかし、今回は本当です。「定員になりました。おかえりください」も十分にありえます。

さて、もう一つ、大司教様は、参加者の条件に年齢を加えられました。初めの書簡では、「年齢65才以上の信徒は、教会でミサに与らなくていいから、自宅で祈っていてください」となっていました。司祭も、75才を過ぎたら、ミサの司式をしないでくださいと書いてありました。65才とか75才というのは、国の基準で高齢者に当たるのです。

これには相当の反感が集まりました。教会にとっては、いわゆる、「守っている信者」の半分か三分の二は65才以上なのです。教会を、実質支えている信徒にしてみれば、「お歳(とし)ですから、教会に来ないで家で祈っていなさい」とは何事かという反感です。しかし、大司教様の書簡をよく読んでみると、答えは明快です。新型コロナのウィルスが狙っているのは、体力、特に呼吸器関係が弱っている人たちです。新型コロナの怖さは、呼吸器、つまり、肺の働きが弱っている人に入り込んで、生命を絶つというところにあるのです。人類の中で呼吸器関係が弱くなっているというなら、まずは「高齢者」です。大司教様の真意は、高齢者が大切だからこそ、今は、控えてくださいということだと思います。

大司教様の最初から持っておられる大原則は、命を狙う新型コロナに対して、「うつさない、うつされない」体制作りでした。具体的には、教会を感染源にしない、してはならないということだったと思います。多少長引くかもしれませんが、大きな犠牲を払ってコロナは去って行きます。新しい世界がやってきます。そのとき残るのは、新コロナ時代に、何を一番大切にしたかということでしょう。教会は、形や制度ではなく、神様が宿っている生命を第一にしていたという言い伝えを残したい。大司教様のたくさんの書簡や説教にそれを感じます。

具体的には、いろいろ難しいことがあるでしょう。そこをなんとかやって行きましょう。必ず道は開かれます。

795316b92fc766b0181f6fef074f03fa-2