主任司祭 西川 哲彌(にしかわ てつや)
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「東京教区ニュース」最新号(11月号)をご覧になりましたか。菊地大司教様が大切なことをおっしゃっています。

教区ニュースの一面に掲載されているのは、去年9月に開講され、休みの日を除いて、毎週土曜日に四谷で行われていた東京教区カテキスタ養成講座の締めくくりに当たって行われた、「まとめの講座」で話されたことです。教区長として、大司教様が、認定・任命式を後に控えた受講者達に、今、日本の教会がどういう状況に置かれているかを率直に話された内容です。

これまで、日本全土に押し寄せている少子高齢化の波が、当然ながら、教会にも及び、教区・小教区・修道会・諸施設の運営が、今までのようには行かなくなる。地方を中心に、教区も小教区も維持できなくなるところが続出する。増え続ける外国籍信徒は、高齢化する日本人信徒と一致することが難しくなる、等々。

希望を持って、福音を宣べ伝え、宣教を進めて行こうというこれまでの日本の教会が、大きな壁に阻まれ、立ち行かなくなっている現実を率直に述べておられます。厳しい現実を見つめ、その中に、主の導きをしっかりと見出し、最善を尽くして行こうと励ましておられました。教区長としての現状分析は鋭く、現実をしっかり捉えておられることに敬意をはらいたいと思います。(教会の指導者達は、かしずかれることに慣れて、いいとこだけを見ておられ、現実認識に疎いのかと思うことがありましたので。)

本当に、針で突いたほどの信徒しかいない小さな団体が、多くの学校や病院等の施設を経営していることが、不思議といえば不思議でした。創立の精神は保たれるかもしれませんが、担い手は、いわゆる、教会の人ではなくなることは避けられません。召命の減少は、修道院も神学校も空にしてしまいました。信徒数も人口の1パーセントの壁を突きぬけることができないままです。

信仰を持っているだけで、死の危険にさらされていた禁教時代、地下組織ともいうべき「組」(教会)を作って信仰を守り通した先人の末裔にあたる私たち。今一度、この教えのありがたさを思いおこす時がきているのかもしれません。

先日、ある信者さんのお葬式がありました。お子さんが二人いて、久しぶりに教会にいらっしゃいました。小さい頃、お母さんに連れられて教会に来たそうで、「本当に久しぶりです。」とおっしゃっていました。洗礼を受けて、日曜学校にきていたそうですが、当時の司祭も教会学校のリーダーも覚えていないということでした。お母さんの骨壷には、使い慣れたロザリオが入れられました。子供達に信仰を続けてもらいたいというお母さんの祈りが叶えられますようにと祈ります。

子供達も、部活や習い事、それに受験勉強などで忙しく、教会どころではなくなっているのが現実です。ですから、親の信仰が子供に伝わることがとても難しくなっています。信仰して何か目に見えるほどのいいことがあれば別ですが、特にないのが教会です。行かなくても、誰も何とも言いません。小学校の高学年、中学生になったら教会から離れるのが当たり前になっています。カトリック系のミッションスクールでも信仰に関しては決してうるさく言いません。

あるのは受験です。普通の学校と何の変りはありません。

話が元に戻りますが、大司教様は、こういう時だからこそ、やれることがある、やれることがあるというより、原点に立ち返って、なんでもやれるということではないかとおっしゃいます。

「何をやればいいの」なんてきかないでください。神様が耳元で囁(ささや)いておられることを、ほんの小さなことからやればいいのです。やればすぐにまた、小さなことを囁いてくださいます。神様は全てを教えてくださいます。

大司教様は「挑戦し続けましょう」と呼びかけておられます。その呼びかけに応えてゆきましょう。

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