主任司祭 西川 哲彌(にしかわ てつや)
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先週は、武蔵野北宣教協力体司式交換(第2回)で小平教会に行きました。実は、私にとって小平教会は忘れがたい思い出の詰まった教会なのです。その一端を聞いてください。

1982年10月のある日、たまたま、関口にいた私に、司教館に来なさいという呼び出しがありました。何のことだろうと思いながら行きました。今は亡き徳川神父様と岡野神父様がいらっしゃいました。お二人とも、教区の重鎮で、大司教様の意向を伝える役割を持っておられたように思います。話は簡単で、「君は、今日から、小平教会の留守番をしてもらう。今から、帝京病院にいる小林神父さんのところに行って話を聞き、神父さんの指示に従いなさい。」

実はその日、留守番役でいた喜多見教会から、役目を終えて関口のセンターに移ることになっていたのです。話せば長い話になりますが、私は、司祭になるために神学校にいた時から、ゆくゆくブラジルに行きたいという希望を抱いていました。ですから、最初の赴任地である高円寺教会でお手伝いをした後は、いわばフリーの身で言葉の勉強をしたりして準備をしていましたから、ぶらぶらしているような感じだったのでしょう。短期の留守番的な役割が回ってきて二つ返事で引き受けていました。

話を続けましょう。帝京病院に行って小林神父さんに会いました。「留守番なんだから、余計なことをするんじゃないぞ」みたいなことを厳しく言われ、鍵を預かってセンターに帰り、荷物を持って小平に行きました。駅から教会への道を地図入りで詳しく聞いていたので迷うことなく着きましたが、歩いても歩いても「サンタマリア幼稚園」看板が見えません。「ちょっと歩けば・・・」ということでしたが、「ちょっと」ではなく「かなり」と言って欲しかったです。

小林神父さんの様子は、一進一退であまりよくなく、正月に無理を押して一時退院されましたが、その後、一気に悪化して、2月8日にご遺体となって帰ってこられました。「口は悪いけど、心は、本当に優しいお父さんでした」と。信者さんやシスターが言ってましたが、その通りでした。聖堂が溢れて外の道をふさぐほどの会葬者でした。隠れファンが後から後から訪ねてこられました。

後日、白柳大司教様が教会にいらっしゃって、小平の信者さんに「ご苦労様でした。神父様に寄せてくださったご厚誼に御礼申しあげます」と丁寧な挨拶をされ、信者さんが大変恐縮されていたのを覚えています。それだけで終われば良かったのですが、おまけがつきました。「神父さん、申し訳ないけど、このまま一年ここにいてくれないかな。人事も終わって、動かしようもないので、そのままいてもらいたいのだけど・・・」「は、はい。わかりました。」「良かった。早速、このことを信者さんに伝えてくださいね。」というわけで、そのまま居座ることになりました。それから、1年経っても、申請していたブラジル入国のビザがおりず、ビザ待ちのまま、人事異動で千葉県の館山教会に赴任することになりました。その時私は41歳。館山に移って数年後、ビザがおりたという知らせがきました。大司教様から、ブラジルに行くより、ここ(館山)で働いたらいいでしょうと言われ、20年も温めていたブラジル計画を諦めることにしました。

武蔵野北宣教協力体司式交換で小平教会に行って主日のミサを司式するということは35年ぶりのことですと。すでに何10名の方々がお亡くなりになっています。すべての方ではありませんが、通知があったり、噂で訃報に接するたびに、追悼の意向で御ミサを捧げてお祈りしました。しかし、35年の年月を物ともせず、お元気なお顔がそこここに見えました。ミサの間、祭壇の上から懐かしいお顔が目に飛び込んできました。予想通り、特別なミサになっていました。説教は、持っていた原稿はどこかに行ってしまい、浮かんでくる言葉を、ダラダラと話すだけでした。意味もなく長い説教になって申し訳ありませんでした。

ミサの後、マリアホールで開催されていた展覧会の作品を見て、昼食のカレーをいただき、思い出話に花が咲きました。

その日は、午後、協力体行事として映画会と公演が予定されていました。約1時間の準備時間がありましたので、懐かしい「泣き部屋」でカーテン越しにご聖体を前にしてお祈りしました。その泣き部屋は、葬儀の時、ご遺体を安置する場所にもなっているので、亡くなられた方々を思い出しながらロザリオの祈りする最適な場所でした。「どこに行ってたんですか、探してたんですよ」とお叱りを頂きました。ごめんなさい、勝手なことをして。35年に免じておゆるしください。

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