主任司祭 西川 哲彌(にしかわ てつや)
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教会の門を出て右に歩き、南口ふれあい通りを右に見ながらそのまま進むと小金井街道に出ます。小金井街道を通り過ぎると左に大きな建物があります。東京都立清瀬高校です。建物続きに大きなグラウンドがあります。清瀬高校の校庭です。図書館通りという名が付いています。校庭に沿ってさらに進むと複十字病院があって、交差点にぶつかります。角に交番があるこの交差点は大事な地点で、清瀬の駅につながっている通りは「病院街通り」という名が付いています。今でこそ、清瀬の南口商店街が有名ですが、その昔、病院が盛んだった頃は、この通りがメインストリートだったのでしょう、「銀座会通り」とも言われています。またこの交差点の近くには、日本聖公会清瀬聖母教会も清瀬市立図書館もあります。そして、多目的に使われている中央公園があります。この公園は、大小の木々が茂っている雑然とした広場ですが、季節ごとの大きな行事で使われているところで、地元の方々にとって親しみのある場所のようです。

何気なく公園の中を歩いていると、出口の近くに、石碑が建てられていて、「ここに清瀬病院ありき」と彫ってあり、そばに、清瀬市がもうけた説明板がありました。ここ一帯に10以上の結核療養所が建てられ、病院街という呼び方もあったそうです。そのきっかけは、昭和6年に、雑木林だったこの地に東京府立清瀬病院が建てられたことにあります。当時、はっきりした治療法も薬もない状態で、ただただきれいな空気の中、ゆっくり治ってゆくのを待つだけの時代でした。清瀬はその条件に合っていたので、次々と結核療養所が建てられ、結核についての研究が進み、治療法も開発され、結核の街として全国的にも有名になっていたとのこと。

第2次大戦終了後、有効な薬も開発され、結核は治る病気になって行きました。十いくつもあった療養所も閉じられたり、姿を変えて、一般病院として再生していったりしました。それでも、結核についての研究は進められ、現在でもそのための治療部門として存立している病院もあります。日本では、罹患率も低くなり、あたかも過去の病気の印象を与えているかもしれませんが、地球上、いたるところで、未だに猛威を振るっているそうですから、歴史のある病院で研究は進められていることはとても大切なことです。

国立病院機構として幾つかの病院をまとめて総合病院に生まれ変わった東京病院の奥に、過去の貴重な施設跡があると聞いて行ってきました。とにかく、夏でも冬でも、窓をあけっぱなしにして、外気を胸に入れ、結核菌の活動を抑えてゆく治療、その病棟跡を訪ねました。かなり長い間記念にとっておいたということでしたが、経年劣化を食い止めることはできず、「ここに外気棟があった」という説明板が残っているだけでした。説明文には、結核のためにお国に奉公できなくなったことを悔やんで、1日でも早く治して「再起奉公」を期す決意表明がなされ、いっそう治療に専念する患者さんのことが書かれていました。戦後70年以上経って、清瀬の病院街も、名前ばかりが残って、見る影も無くなりました。まさかこの地域に5千名以上の結核患者が、静かにしかも根気よく、結核菌と戦っていたとは想像もつきません。でも、ここに10以上の結核療養所があったことを過去の話にしてはいけません。「生きたい、生きたい」と叫んでいた声を忘れてはなりません。そう思いながら、歩きました。

話は元に戻りますが、清瀬病院跡地の碑の説明の中に、「昭和8年、ヨセフ・フロジャック神父によってこの地に『療養農園』が開園された」の一文が入っていました。これを読んで、なんとも言えない喜びを覚えました。江古田に続く、清瀬(野塩)のベタニアの家の出発点でしょう。おそらくは、必要に迫られて作った療養所が、後々(のちのち)大きな宣教の拠点になっていったのですね。なんと素晴らしいことでしょう。

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