主任司祭 西川 哲彌(にしかわ てつや)
西川神父

吉野路子さんが亡くなられてすでに3週間が経ちました。練馬の順天堂医大病院に転院された時は、命の危険というより、しばらくは大丈夫で、一時帰宅を考えるようなことを先生が言っておられたそうです。しかし、その直後に、「危ない状態だ」と言われ、家族や友人は、ショックで言葉も出ない状態だったと聞きました。そして、言葉をかけても、わずかな返事があるだけで、昏睡状態になってしまわれました。そして、7月29日の臨終を迎えられたのです。

訃報は直ちに伊藤神父さんに伝えられ、神父さんは通夜・葬儀ミサに出席し、火葬場にも行かれ、お骨を拾われました。吉野さん家族との付き合いからすると、主司式者をし、説教もしていただくのが妥当かと思いましたが、これからのことも考えて、私がしました。

さて、主任司祭が交代して3ヶ月が経とうとしています。大きな変化はありません。教会はノアの箱舟のように、神様の命令で作られ、洋上を漂いながら、神様の思いに従おうとしている船にたとえられます。操縦桿は司教から派遣された司牧者つまり主任司祭に託されています。実際、船を動かしているのは信徒です。一人や二人でどうなるものではありません。それぞれの役割、分担が決められていて、偏らないように交代しながら船を進めています。船は、大きさの大小を問わず、ゆっくりと進んで行く性質のものです。

最近、何人か集まり、それとなくおしゃべりするとき、盛り上がるのは、伊藤神父さんの話題です。人生の花とも言える50代を、最初の主任司祭として7年間も働かれたのですから、話題に事欠くことはありません。秀才が集まる栄光学園を卒業されて、一橋大学という超一流の大学を卒業し、大企業に勤められた。しかし、自分の道とは違うものを感じ、教職への道に方向転換をし、教師としての奥義を極めて、神様の呼び出しに従い、神学校に入り、死に物狂いで勉強し、司祭になって、初めての主任司祭として清瀬教会に派遣され、死に物狂いで働かれた。なんとも波乱万丈に見えて、実は、司祭になるために神様が与えられた諸課題をクリアしてきた一本道だったのかもしれません。ですから、清瀬にかける情熱は並々ならないものがあったのですね。

話題に出るのは、昨年12月27日、13歳で天国に帰られた八島文香さんの葬儀ミサでの説教です。文香さんの生前にあったことを、一つ一つ丁寧に取り上げ、涙を湛えて話されたそうです。それを聞いた会衆人一人一人が心を打たれ、神父様がいかに深い愛を持っている方であるかを感じたとのことです。結果的に、神父さんの熱い人柄と、教会がどんなに人を大切にしているかを出席された方々は心に収められたことでしょう。そればかりではありません。教師として生きた時代の教訓を、教会で生かし、教会を組織的に運営し、誰もが何らかの形で参加し、自分の持ち味を生かす道を作られました。

特に、子供たちを育て、教会に貢献する道を与えられたのは素晴らしい業績です。清瀬の侍者は東京一と自負しておられます。その通りです。菊地司教さんもそうおしゃっていたと神父さん本人が言っていました。お母さん方も、路子さんの葬儀の時、「子供たちを育ててくださいました」と何度も言っておられました。それだけではなく、高森草庵やいろんなところに、子供と一緒に、お母さん方も連れ出し、「貴重な体験をさせてくださった」とのことです。全くうらやましい限りです。「神父さんが連れて行って下さらなければ、できない体験でした」と、あるお母さんが言っておられました。

神父さんは可愛いところを持っておられ、その話題もたくさんあります。たったの三ヶ月間ですから、聞いたのは、ほんの一部でしょう。とにかく放っておけないような可愛さが、少なからずあったようです。50歳を超えたような大人が、「かわいい」と言われるのは、よほどの魅力があるという証拠でしょう。

神父さんは、清瀬教会を超えて、東京教区でも大活躍です。今(8/15現在)続行中の「平和旬間」行事では司教さんのブレーンとして働き、司祭評議会の一員として、司教さんの知恵袋の一人です。これだけの人材を司教さんが放っておくわけがありません。能力からも年齢からも、申し分のない司祭です。

神父さんが心残りにされておられた信徒会館二階の司祭室のエアコンが昨日、取り替えられました。ダイニングルームですから、朝晩食事をし、ホッとしたり、ちょっとした用事を済ませる日常生活の場です。そこのエアコンが故障していたのです。私は「いい風が入るから、エアコンはいらない」などとほざいていましたが、8月に入って、熱風が吹き込むようになって、根を上げてしまいました。居場所がないからです。これで、神父さんの残していた宿題が全てクリアされました。でも、まだまだ、神父さんの話を聞いてゆかねばならないでしょう。それだけの仕事をされたのですから。

図1