長崎の神父様      いとう あつし

今回の長崎巡礼では、長崎市内と外海、そして五島の歴史ある教会堂をたくさん訪問できることを楽しみにしておりましたが、もうひとつ、旧知の神父様にお会いできることも密かに期待しておりました。

長崎で最初に訪問したのは浦上天主堂で、神学生時代の後輩にあたるN神父様が、助任司祭として働いておられると聞いていましたので、到着早々、面会を試みました。その日は彼にとって貴重な休日であったにもかかわらず、快く応じてくださり、そのうえ、休日返上で我々のミサの準備に奔走してくださいました。

五島から長崎市内に戻った夜、今度は彼の方からホテルに訪ねてきてくれました。太麺の皿うどんが食べたい、などと私が言ったので、わざわざ慣れない車を運転して迎えに来てくれたのです。そして、運転の緊張で口数少なくなりながらも、なんとか無事に街中まで連れていってくれました。

車を駐車場に止めて中華街に向かったのですが、途中、盛り場を抜けていかねばならなくなると、彼は運転していた時以上に緊張して身体をこわばらせ、キョロキョロと辺りを見回しながら、「こ、この辺は怖い人が襲ってくるかもしれませんよ〜」などと言い始めました。冗談を言っているのだろうと思って彼の顔を見ると、笑顔が引きつっています。その世間知らずな真面目さに思わず噴き出してしまいました。

「いくらなんでも、いきなり襲ってはこないでしょう」と答えながら、私は彼の純朴さにちょっぴり感動していました。人のよいこの新司祭は、長崎で生まれ育った若者でありながら、町で唯一といっていいこの歓楽街に、これまでの人生で一度も足を踏み入れることなく過ごしてきたのでしょう。怪しい!とか、危ない!とか、そんな発想よりもっと単純に、いけない!と思い続けてきたのではないかと想像しました。このご時勢に、盛り場に行ってはいけない、などという考えが通用するのだろうかとも思いました。しかし、徹底的によくないものを避けようと考えていること、いや、よくないものを避けることが習い性になっていることに、むしろ神に従う者のあるべき姿を見たような気がしたのです。

悪魔の試みでしょうか、時間が遅かったせいで皿うどんを食べさせる店はなかなか開いておらず、結局、N神父様があんなに嫌がっていた歓楽街をぐるぐるぐるぐる回り続けることになってしまいました。彼のこわばった背中を追いながら、この体験が尋常ならざる緊張を強いてしまったであろうことを心の中で詫びつつ、へたに免疫などつけずにいつまでもこうした盛り場を怖がる、世間ずれしていない神父様でいてほしいと、心の中でそっと手を合わせました。

長崎巡礼に参加して (匿名)

私にとってこの度の巡礼で5度目の長崎・2度目の五島訪問でしたが、初めての所も多く沢山のことを学びました。中でもコルベ記念館と、牢屋の窄では大きな衝撃を受けました。

tsudoi201307_01コルベ神父の捕えられたアウシュビッツは御存じの通り暴力が全てを支配する恐怖の世界でした。ナチスの兵隊、特に所長のフェリッチは、収容者を文字通り虫けらと同じように扱い獄舎に居人を些細なことを理由にして庭に引き出し命乞いをする人に向かって笑いながら銃の引き金を引くという日常でした。そんなある日、皆さんもよく知っている出来事が起こります。

「私がこの人の身替りになり ます!」「このブタ野郎、お前は何者だ!」「私はカトリックの司祭です」という問答を聞いた所長は程なくしてどこから来るのか判らない恐怖に襲われ震えが止まらなかったそうです。この世界では、自分が全ての権力を握っていて何でも出来ると思っていたからです。その時、神の次元に生きていたコルベ神父によって、自分の中の秩序がガタガタと崩れたのだと私は思います。

一方、牢屋の窄に捕えられていた人にもコルベ神父と同じものを感じます。6坪の小屋に2百人余りの人が押し込まれて身動き出来ないどころか足が地に着かない人もいて窒息した人、排便等も垂れ流しのためウジに内臓を食われて死んだ人、餓死した人もいましたが、この人達の死にゆく時の言葉に恨みはありません。それは拷問・責め苦も喜びと希望に満ち溢れる燃える様な神への愛を消すことが出来なかったからに他なりません。感動です

tsudoi201307_02さて、次は何といってもド・ロ神父の働きです。ド・ロ神父が司牧したその当時、(明治十二年)の外海・出津は、平らな土地が殆どなくそ こに住む人々の暮らしは貧しくて、毎日さつま芋と魚しか食べられません。その様な村人をみたド・ロ神父は彼らをあわれに思い、先ず農業指導に力を注ぎ農具の改良また、小麦を作って長崎に来ている外国人向けにパスタ・マカロニを作らせて売り、また、日本人向けには、うどん・ソーメンを作らせたといいます。

それから建築の技術を生かし教会はもちろん、鰯網工場助産院等を建てました。助産院を建てた理由は、その当時、出産時の妊婦及び子供の死亡率が非常に高かった事とそれ以上に貧しさ故の子捨てが、常習化していたためですが、その当時は大村藩だけではなく日本全国で、口減しのための子殺しが行われていて、その遺産が「こけし」です。神父に協力する女性たちがうどん等を持って行商しながら、そういう子供を探し連れて来て育てるためでした。

ド・ロ神父は、医療・福祉・教育文化等にも深い知識を持ち日本文化に大きく貢献したといわれますが、私の感動はド・ロ神父の一貫した司牧、民への愛と父であり続ける姿です。

さて、それから、黒崎教会へ行って私は大発見をしました。クーザン神父が一八六七年に外海へ行った折、ミサを挙げたのが辻村三次郎宅だったと、碑に刻まれていたのを見て、また、ほかの話等を考え合わせて得た結論は、私のルーツは、外海地方であったということです。外海では、厳しい生活のため五島に移住(五島やさしや、土地までもと言われていた。)したが、先客が居て、生活出来る所が限られていたため、更に生きる場所を求めて他の島へと流れて行ったのです。父は今の佐賀県に有る馬渡島、母はすぐ近くの松島生まれなので、私は確信しました。しかも穀類ばかりをずっと食べていたために腸が長くなり足が短くなったのです私は歴史や考古学の事は判りませんが、しかし、この事は数学の方程式の答えよりも遥かに確かなことだと思っています。

この度の巡礼旅行では、まだまだ沢山の印象深い場所、人物、エピソード等にも出会いましたが、当教会の大曽さん出身の大曽教会を訪問した際の歓迎ぶりには、びっくりしました。弟さんの歓迎のあいさつに始まり、手作りのふくらし饅頭、獲れたてのサザエ、最高級魚のヒラマサの刺身でもてなされ、また、色々な話を伺う中で、彼らの信仰深さが身に浸みました。それから、次の教会でのミサ後の昼食場所である扇寿へ行った時に出たサザエの新鮮度、味の違い、一つ取ってみても、あの人たちが朝早くから漁へ行き、女性たちは野山に饅頭の葉を採りに行き、どれほどの心を籠めて料理を作ったのかが判りました。

最後に巡礼団長である伊藤神父さんは我々をいつの間にか祈りへと誘って、自然と巡礼黙想が出来るように導き、遺憾なくリーダーシップを発揮されました。ありがとうございます。また、一緒に行かれた方、心を開いて悩み等も含めて色々なことを分かち合ってくださり、ありがとうございました。

生きて、そこに光り輝くもの (H.I)

私にとって洗礼の意味を改めて考えさせられたのは2008年、知の巨人と言われた加藤周一氏が亡くなる数ヶ月前にカトリックの洗礼を受けていたと言う事実だった。まさかあの冷静、客観的で、最先端の知にも通じ、古今東西の古典を渉猟する、博識な加藤氏が死を迎えても、宗教には帰依しないと思っていたからだ。洗礼を受ける時、加藤氏は神父に「母親と妹がカトリックの洗礼を受けていて、その環境はあった。自分も死んだ時、母と将来は妹とも天国で会えるようになりたい」と語ったそうだ。知だけでなく情の人とも言われる所以だ。

その加藤氏に10年くらい前、私は新宿で講演を聴いたことがあった。加藤氏が入場してくると会場からは、熱い拍手がわき、根強いフアンが多いことを思わせた。加藤氏は老いたとは言え、眼光は鋭く、周囲を圧する気迫をまだ持ち合わせていた。話は知識人の役割、日本から世界を観るのではなく世界的な視点で日本を観る必要がある、というような話だった気がする。加藤氏は「日本文学史序説」において日本の伝統文化を思想史まで高め、「羊の歌」では知的にして明噺に自伝を通じ、生き方を現している。晩年は一貫して「九条」の精神を重ん

じた印象が強い。実に加藤氏は多くの人々に、輝くものを残した。

 

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ところで生き方としてどんな道行きを選び取るか、という意味で最近、私が考えさせられた小説に村上春樹氏の最新作「色彩を持たない多崎つくる、彼の巡礼の年」がある。人間の身体は多くの部分からなり、身体の全ての部分の数は多くても、身体は一つであるように神はご自分の望みのままに一つ一つの部分を置かれた、と聖書にも記されている。つまり組織や共同体は様々な部分によって全体が成り立っている。それによって人間は危ういバランスと調和が図られている。ところがこ

の物語の主人公、多崎は高校時代に共同体とも言える位の緊密な関係にあった4人の仲間から突然、絶交を言い渡される。その4人は高校のあった名古屋に残り、多崎だけが東京の大学へ進んだ時だ。どんな理由で仲間から突然、切られたのか、皆目理由が不明で多崎は死ぬほど苦しむ。彼らから一方的に存在を否定された時、自分は死んだのだという思いに至る。なんとか苦しみを凌ぎ、記憶を封印した生き方をして後、多崎は体型も顔つきも一変する。それから10年以上が経ち、多崎は沙羅という女性と関係を持つ。沙羅は、多崎が何故、仲間から絶交されたのか理由を探求せずには、貴方の人生は真に前には進めないのではないか、と指摘される。そして十数年前の存在を否定された仲間一人一人に会い、謎に立ち向かうのだ。(既に一人は他界していた)

程度の差こそあれ、確かにこういうことは、私にも体験がある。あの時、私は何故、周囲に理解されなかったのか。何故、あの人は私から離れていったのか。全て自分が悪いのだと収めてしまえば簡単だ。嫌な記憶を封印したまま生きていけばよいのだ。パンドラの箱を開けるのは、自己崩壊を拡大させる恐怖がある。しかし、多崎のように過去の真実に向き合おうとすることは、本当の自分を取り戻し、未来を生きていこうとする選択に他ならない。たとえ時間が過ぎていても新しく蘇生していこうという生き方に、私は光り輝くものを感じる。

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また、静かな生き方にも光りは存在する。小川洋子著「ことり」という作品では、身寄りのない死後、数日経つ中年の男の遺体には鳥かごが抱かれており、中には小鳥が舞い、美しい鳴き声を響かせていた。男は20年近く幼稚園の鳥小屋の清掃を丁寧にしてきた。男(小鳥の伯父さん)にはポーポー語しか話せず、両親とも言葉が通じない兄がいたが、弟には通じた。両親の死と共に世間からも取り残されたような生き方になるが、兄は小鳥とのコミュニケーションが出来、小鳥たちは兄が鳥小屋に来ると喜んで、一斉にさえずり始める。生垣に寄りかかり、兄の体形がついてしまう位、小鳥たちと通じ合った、その兄も突然の死で、男の前から居なくなってしまう。園長も代わり、幼稚園からも遠ざけられ、小鳥の鳴き合わせ 会の残酷さに失意し、「小鳥の小父さん」の純粋な思いもズタズタになる。自身の死を予感しながら、小鳥の小父さんは、小鳥の美しい歌声に耳を澄ませ、その声を自分の魂へ重ね合わせていく。その人生には静かな小鳥たちとの幸福な時間が確かに存在した。

人間の生き方は様々だ。種が肥沃な土壌に落とされるか、瓦礫の上に落とされるかで、その後の道行きも変わってくる。豊かな環境で伸び伸びと育つ芽もあれば、痩せて貧弱な芽もあるし、伸びようとして途中で枯れてしまう芽もある。しかし、どうであれ、一瞬でも此の世の光を受けた存在であることに違いはない。「空の鳥を見なさい。種も蒔かず、倉に納めもしない。

だが、あなた方の天の父は養ってくださる。・・・・・栄華を極めたソロモンでさえ、この花一つほどにも着飾っていなかった。今日は生えていて明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」(マタイによる福音書6章25〜30節)明日も、という命の保証はどこにもない。「死期は序を待たず、死は前よりしも来らず。かねて後に迫れり。」(徒然草155段)しかし、どんな形であれ、此の世に生を受けたという事実は、そのこと事体が光り輝く普遍的な真実である。

初音 (O.T)

初音あり友の便りのなつかしき
コーヒーの香も新たなり春立ちぬ
梅島の旋回ゆるり春の海
つるし雛女の歴史つながれて
日の光増して輝く雪解山
鯉職家族一気に増えにけり
田に水が満ちくれば空鯉泳ぐ
田の水に藤の花房届きけり
青草のにおい踏みしめ山を行く
草いきれ子供の顔が覗き見え
朝顔が大波小波揺れている
遊ぶ子の声に揺れるや秋桜
コスモスや賑わい見せて大家族
稲の穂がキラリキラリと背を揺らし
ゆくりなく語り明かすや秋灯下
秋関る隣りの人の声高し
友人の消息聞こえ秋探し
柿熟し数珠の如くに静まりぬ
水仙は母の形見ぞ家苞とし
初春の街は静かに眠りおり

宙 (O.T)

待ち人のまだ来ず梅は自の八重
退職し芹摘む午後は長閑なり
花屑の吹き寄せられて道となる
春雷や目覚め一斉屋根瓦
鯉幟大きな空を呑んでおり
キャラメルを買いし夫に春の風
蒲公英の絮を地球から飛ばす
トンネルを抜け新緑の風軽し
平凡な一日であり梅雨晴間
岩風呂の滝の中から蝉時雨
サボテンが夜の闇を赤く刺す
退職後丸坊主なる夏姿
梅雨晴間雲を浮かべて水溜り
背中から秋が追い付く田圃道
赤茄子の数珠を手繰って盆の入り
柿熟し晩鐘の音遥かなり
蜘蝶の糸ゆらりと光り天高し
千尋の海春を浮かべて輝きぬ

ギザギザ天使の会

清瀬教会のみなさまこんにちは、ギザギザ天使の会(青年会)です!
わたしたち青年もミドルの会やプラチナ会のように若者の会を作りました!
2月にさりげなく発足し、毎月青年たちの交流を深めるためを神父様と共に楽しくやっています。3月にはディズニーランド遠足、5月にはスポーツ大会、6月にはBBQをやりました!
もちろん楽しいことだけでなく最近では清瀬教会のホームページ作りも手伝っています。
未来の清瀬教会を担うため日々精進していきます!今後ともよろしくお願いします!
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